比延山城

別名− 付近住所 西脇市比延山町比延 現在 城山公園
碑・案内板アリ


ほぼ独立した急峻な山である比延山(標高289m、比高220m)の山頂に延長180mに渡って曲輪が築かれています。大きく北郭群と南郭群に分かれ、両者とも階段状に小さな曲輪を連ねている点が共通していますが細かく観察すると、北郭群は曲輪の削平が不十分で曲輪の斜面(切岸)も緩やかであるのに対し、南郭群はそれぞれの曲輪がはっきりし、曲輪間をつなぐ通路も設けられています。以上の点から北郭群は南北朝時代に築城されたまま残され南郭群は室町時代に改修されたことがうかがえるのです。このころの山城は合戦の時にこもる為の城で普段は見張り番がいるだけでした。その為、建物も粗末な小屋程度でしかなかったようです。比延山城の城主は本郷氏です。本郷氏は南北朝時代に当地に配置された赤松一族で初代は本郷直頼といい、頼兼、頼木?と続きますが、嘉吉の乱(1441)で没落し、復興後も比延山城には帰らなかったと伝えられています。この本郷氏の歴史は比延山城の現状とも一致しています。つまり北郭群は直頼が築城したままのものが残り、南郭群は嘉吉の乱ごろの改修にかかるものと考えられるのです。このように比延山城は城史と城郭の年代観が一致する貴重な例です。なお、秀吉から炭の礼状をもらった比延氏は野村町の野村構居城主、上原氏の被官人で戦国時代に京都から比延に来た一族ですが、比延氏が比延山城を使用した痕跡や記録はありません。